北ノ沢のあの日、あのとき―第2回

北ノ沢ものがたり

北ノ沢に町内会が発足され50余年。当時は大変な苦労があったようです。残されている資料をもとに、ホームページで少しずつご紹介してまいります。
※「北ノ沢第三町内会史(30周年)」をもとにデジタル化して再構成(一部省略、改編)しています。ご了承ください。

高地ゆえの課題を克服しながら発展

人が暮らすためには、そこに通じるための「道」そして生きていくための「水」が必要となってくる。昭和33年に観光道路が建設され、同時に土地が次々と売られて街並みが形成されていった。人が増えるにつれ水をどうやって確保するか、高台ゆえの問題が突き付けられた。今回は、道路と水道についての変遷をまとめてみた。

藻岩山手線ができるまで

終戦までの山手線は馬車が通れる道として、ここに住む農家の方々が協力して作った道であった。幅は2間というから約3.60m程度。起伏の激しい道であった。
「燃料炭を運ぶ際に馬が途中で止まり、バックして馬車がひっくり返ることもあった。石炭は崖に散らばって拾うこともできなかった(30年史より)」とあるので、当時の苦労がうかがえる。

戦後、真駒内の米軍キャンプに給水するため現在の北ノ沢1丁目辺りに浄水場が建設される(昭和48年、ここの浄水場は廃止されている)。この水は北電藻岩発電所に送る水の一部を使っていたので、その取水口までジープの通れる道に改修される必要があったという。

昭和22年8月、藻岩山手線は市道0444号として認定される。しかしながら幅5.45mという生活道路しては当時としても狭い道路だった。そのため、何度か道路の拡幅が図られている。
「北の沢山手線道路の拡幅を図り、十五米幅分の土地の地主に寄付を呼びかけ、市役所に寄付申出書を提出し受理してもらいました。地主の一部には”こんな所に幅の広い道路などいらない”と言われ、憎まれました。私は将来のことを考えて、皆さんに頭をさげました」(小林新夫自伝「開拓の碑」ー区分長・町内会長としての二十五年をふりかえってーより)

小林新夫氏の山手線道路用地寄付運動(14.45mへ)は、その後、小長谷政一氏による道路用地寄付運動(18.18mへ)へとつながっている。

北海道大博覧会を契機に

この狭い道路が現在のように広くなるきっかけは昭和33年7月5日~8月31日、札幌市と小樽市を中心に開催された「北海道大博覧会」だった。札幌市はこの博覧会に向けて「藻岩山自動車道」と「藻岩山ロープウエイ」を計画している。そうした情報を入手したこともあったのであろうか、小林氏、小長谷氏の努力が実り、山手線地域に住む多くの地主の寄付が進んだことで、現在の藻岩山手線、藻岩観光道路ができた。札幌都市部とつながり、通勤者が転居するなど一気に拓けていった。

観光自動車道の開通後、昭和34年~35年にかけて、地元の方により道路の両側に植樹がなされている。北ノ沢4丁目はサクラ、3丁目はナナカマド、料金所まではポプラという風に計画的に植えられたという。

この並木が植えられてから、農家の方は毎年草刈と並木の手入れを行っていたそうで、この行事は後に町内会に受け継がれることになる。

山手線は何度かの改修と舗装が行われ、同時に並木も切り倒された。「あの並木は惜しいことをした」と当時を知る方は残念がる。ポプラ並木はまだ残っているものの、ナナカマドはあまり見かけなくなった。サクラは北ノ沢公園を中心とした辺りに数本見かけるのが、その頃の名残だろうか。来年のサクラの開花時期には、こうした北ノ沢の歴史を振り返りながらそぞろ歩くのも一興かもしれない。

なかなか進まぬ水問題

水問題は古くから議論されていたが、なかなか進まなかった。北ノ沢町内には井戸がいくつかあったものの、渇水期になると多くの井戸が涸れて使えなかった。また、近くに家が建つと涸れてしまうというジレンマもあった。職場の帰りはポリバケツを車に積んで帰るといった家や、風呂は一週間に一回といった家もあった。この状況に転居する家も少なくなかったという。町内にとって「水問題」の解決は最重要課題となっていった。

北ノ沢の分区時代の記録によれば、昭和43年の協議事項に「水問題は北電と折衝する」とある。当時北ノ沢1丁目の浄水場が閉鎖された時期と重なる。この頃は、水に関しては何とかなると考えていたようである。結果的には何も行動は起こせずに、水問題解決の進展は見られていない。

昭和49年になって「北ノ澤地区上水道布設促進期成会」という組織ができ、市議会に請願書が提出されている。同年12月10日の北海道新聞に「団地高地化に追いつかぬ水道」、読売新聞にも「上水道早速ひいて、高台地帯の北ノ沢、藤野」という記事が掲載されている。膨らむ人口に札幌市のインフラが追い付いていなかったということであろう。

翌50年9月にも「北ノ沢高台地区に水道布施に関する請願」が提出されている。そこでは
「さて、この度川沿地区の一部に(藻岩観光道路より低地帯)市の上水道が布設されるはこびになったと聞き及んでおりますが、私たち高台地区住民にも一日も早く同様の恩恵を受けられますよう請願いたします。(以下省略)」

こうした必死の訴えが実り51年3月、議会において採択される。この採択により北ノ沢の上水道布設は札幌市の第5期拡張事業計画に組み入れられている。53年、北ノ沢ポンプ場が建設された。さらに56年、北ノ沢高台ポンプ場ができ、やっと第三町内会(市街化調整区域を除く)に広く水が届くようになった。

この頃活躍したポンプ場はその役目を終え今は見つけることはできないが、北ノ沢高台ポンプ場の建物だけはまだ残っている。散歩がてら坂道を登ってみてはいかがだろう。ちなみに現在の上水道体系については、自然災害や電気が止まっても大丈夫なように小林峠の下に貯水池が建設されるなど、新たなシステムが構築されている。

以下、「北ノ沢第三町内会史(30周年)」より

次回に続く

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